写真映像の薄い被膜

長谷川哲

 写真の最も大きな特質は記録性だと思います。

写真の画像が私たちの肉眼がとらえる画像に最も近いがゆえに、写真は現実の断片を写す物として、疑似現実として共通認識されてきました。

写像は疑似現実としての写像、つまりは現実の影と言えるものです。

例えば街の風景写真を例にとると、そこに写り込んでいる建物、車、人などは現実の影というものですが、しかしその影の裏側にはそれが確かに実在したのだという、確たる信頼が共通感覚として存在してきた、その感覚が写真に対する重みを担保してきたのだと言えます。

 だからこそ写真は個人の記録のみならず社会の記録装置として長らくその役割を果たしてきました。

自我をくぐることがなくて、もっと正確に言えば最小限の自我の働きだけで自動的に同じように写し取られる、それゆえにこそ社会の記録として信頼を得るわけです。その記録としての写像を介して、写像を繋ぎ合わせながら私たちは客観的な世界を拡大構築してもきたわけです。


しかしデジタル社会の登場はこの信頼を破壊しました。

アナログフィルムにおいても写真を巧妙に加工するということはあったのですが、それは極めて例外的なこととして、圧倒的大多数においては、そこに写り込んでいる事物は確かに存在したのだという共通感覚が写真に張り付いていたわけです。

しかしデジタルの時代になると写像がデータの集積となり、電気信号のON,OFFとしてのデータの加工はいとも簡単になされるようになりました。

簡単にデータを操作できるということは、実は写真の写像に張り付いていた、写真の中の現実は確かに実在したという確信がなくなって行くことを意味するのです。

この感覚の変化、影に張り付いていた実在という担保が消えると、写真は実に浅く、色あせたものとして映ります。

 社会の記録装置として写真に取って代わるもの、現実が裏打ちされているメディアをどうするか、どのように作っていくのかは今後の大きな課題だと思います。

いまVRの出現と相まって、我々は現実とは何かという問題に直面させられているのだと思います。

2019年11月にマサチューセッツ工科大学の研究チームが一本の動画を公開しました。1969年7 月20日に打ち上げられたアメリカの宇宙船「アポロ11号」が実は失敗したという想定で、当時の大 統領のニクソンが犠牲となった宇宙飛行士を弔う演説を行ったという動画である。 フェイク動画です。 この動画作成には AI が使用されています。 

ディープフェイク動画は、AI スタートアップの Canny AI および Respeecher と協力して制作。当 時スピーチライターが保険として書いた原稿を読み上げる俳優の動きをニクソン大統領のもの と融合させ、音声も AI により合成した。 当時のニクソン大統領が、ミッション失敗を告げ乗員を弔う演説をするというものである。 演説原稿は、ミッション遂行時に失敗した場合の大統領演説として用意されていたものがもちいら れた、とのことです。

問題はこの画像がまるでフェイクと思えない、実際に起きたことのように感じさせるという点です。

 これはAI の時代がすぐそこに来ていて、そこでは価値の転倒が起きるという一種の警鐘を鳴らす意味 で制作されたものです。 銀塩写真の時代は、画像のデータはフィルムという物質の上に銀粒子が塗布されて、その中に閉 じ込められた。 しかしデジタルの時代に移ると画像データは on,off という電気信号の羅列になった。 そしてそこでのデータの処理は銀塩時代と比較すると格段に扱いやすいものとなった。 さらにデジタルデータの処理方法として人工知能が登場したというわけです。 アポロ11号のフェイク動画が提示されてから数年もたたないうちに、2022年から2023年にかけ て AI が強いインパクトを持って私たちの前に登場した。 日常言語でもって Prompt で指示すると極めて高度な回答をごく短時間で返してくる。 そしてこの AI ツールは、あらゆるジャンルをカバーして、猛烈な勢いで全世界で活動し情報処理 を行い自らを進化させはじめた。 テキストのみならず、画像生成、動画生成、音楽生成などと広範囲にわたる。 この AI の登場そして社会への急激で全面的な侵入によって社会は一変するだろうと言われ、また私もそう思います。

 さて先ほどのアポロ計画のフェイク動画であるが、そのような極めて見分けがつかない動画は今後 様々な社会的側面において多く生み出されるようになる。 

それによって写真やメディア映像ははたして実在に裏打ちされて いる写像であるか否かという疑惑が入り込むこととなった。 その結果写真画像は真を写しているとは言えなくなった。あるいは実在の担保という信念 が薄らいだ。 長年にわたって写真が担ってきた社会の記憶装置としての役割が失われいくのである。

 今後 AI 画像の浸透はどのような問題を引き起こすであろうか。 一つには映像があふれる現実社会が、実在に裏打ちされていない、不信に満ちた世界であるとの 認識が広がるだろう。 この考えは今までメディア映像を通して自分の世界を構成、拡大してきた我々の世界に対する、その実在性に対する疑念となり、その 疑念の広がりに伴って人々の中に存在している世界が縮小していくことを意味する。

  他方、拡張してゆく仮想現実の世界を実在する世界であると、いわば無邪気に信じて行動する 人々の出現がある。おそらく大多数の人々である。 ここでは、拡張された世界の中で操られ、且つ酔いしれる。 その結果は、感覚的な言い方をすれば自我の内部の秩序が失われるだろう。

現実が持つ秩序(=制約)から解き放たれているわけだから、現実を自我世界が超越することにな る。その結果は極端な言い方をすれば、躁鬱病者の観念奔逸が常態化する世界のような気がす る(考えうる一つの可能性として)。

  いずれにせよ我々は変容する。

人間の存在、社会の根幹にかかわる小さな(?)変化は確実に大きな問題に帰結するのである。事物は論理的に推論される結果に向かう、論理的な帰結を避けることはできないという訳である。

 そして今後急激に変容する社会の中で(変容を自覚するか否かは別であるが)、美術の役割、意味付け、在り様もまた変容するだ ろう。その時の居場所はどこだろうか。


VRの時代、ラスベガスに出現した巨大球体

以下はWEBでの紹介記事です。

ゴーグルなしでVRのような没入体験を提供する 世界最大の球体構造によるアリーナ〈Sphere〉Sphere, the world's largest spherical arena, provides an immersive VR-like experience without the need for goggles |CULTURE|TECTURE MAG(テクチャーマガジン)  



2018年に発表され、ベネチアン・リゾートの一部として建設されたMSG Sphere。デザインはコンサートや映画祭、スポーツイベントなどに使用されるスタジアム建設で有名な建築事務所Populousが手掛けました。

高さは約111メートル、広さは約1万4864平方メートル、そして1万8000人収容可能な世界で一番大きな球体建築物なんだそうです。

そして壁にはプログラム可能な120万個のLEDライトが敷き詰められていて、球体に映像を映し出します。

すごいのは外側だけではありません。内側の天井と壁いっぱいに解像度16KのLEDスクリーンが設置されているので、超没入型のコンサート体験ができるようになっているようです。

紹介記事は以上です

圧倒的なエンターテインメントです!

アートがリードできる余地は残されていないようですね。

アンディ^ウォーホールがマスイメージを逆手に取ってアートの世界に引き込んだわけですが、ここでのエンターテインメントイメージともなるともはや引き込むなどは無理ですね。すでにアートは社会の中で大きな位置を占めているとは思えないからです。巨大な資本に圧倒されるということです。


ではここからアートをどのように考えるのかということです。

アートの居場所はあるかということです。

勿論人間は多様であり考えも多様なので美術の表現もまた多様な展開を見せるでしょう。

人が生きて活動する限り個々人の表出、表現は消えないので広い意味での表現もまた消えないということになる。

こういう時は原点に立ち返って考えるのが良い。

人が肉体をまとって意識、言葉を持ちこの世界の中を動くという原点を考えてみる。これはお互いさまなんですが私たちは自分に引き付けて考えるので相手も自分と同じように考えて行動すると考える、基本は。しかしお互いに共通する部分もあるが違う部分もあると考えるべきでしょう。ここが表現の原点。

人間はお互いにかなりの違いがある存在である。

お互いに違いがあるがゆえにその違いを埋めるべく自らが自分は何であるかを言葉や身振り手振りで埋めなければならない。人は全く一人で生きることは出来ないので、この相互性は人間の条件だということになる。

つまり生きるということは相互のコミュニケーションが不可欠だと言うことである。

マリーナ・アブラモビッチのパフォーマンスに美術館の中でただ椅子に座り、自らを物と化す、客体と化す有名なパフォーマンス<Rythm0>(1974)があります。

  6時間の観客参加型。

  テーブル上に72個のアイテムがある。花、鳥の羽で出来たはたき、大小の鎖、ベルト、鞭、ロウソク、など

  鑑賞者はそれらから好きなオブジェを手にしてアブラモビッチの体の上でそれを自由に使う

何が起きたのか 

 アブラモヴィッチは観客により上半身を脱がされ、手にはポラロイド写真を握らされ、乳房にバラの花びらが書かれた。

  鎖でつないだり、ナイフで傷つけたり弾の入った拳銃を突き付ける人も出た。  

このパフォーマンスは色々解釈ができるわけですが、それは言葉によるコミュニケーションを遮断すると暴力が引き出されるとも解釈できると思います。

例えば虐待という認めがたい行為もまた言葉によるコミュニケーションをなくした場合の在り方だともいえる。

そしてこれをその人の表現だともいえる。

そういう表出は悲劇的ではあるけれども、その人にとっては切実なんだといえる。

人間の生(き)の表現とはそのようなものだ。

我々は日々生きて動き回る、それにまとわりつく形で絶えず自己表現をしているということになる。

心の内部に潜む得体のしれない破壊的な欲動を自覚したのはフロイトだった。

繰り返し湧き上がるその得体のしれない破壊的欲動を彼はタナトスとなずけた。

人間がもつ性の原理を”育む”力学と考え死の原理を”無化”の力学だとすると人間はこの相反する原理を内に持つ実に厄介な存在だといえる。

どのようにしてこの絶対的な矛盾を内において解決しているのだろうか。

両者がうまく連動するときには、光と闇のような関係で、この二つが人間の綾を成す。

しかし事は簡単ではない。

暴力は満ち溢れている。

フロイトが暴力は人間に備わった本能であると位置づけたことは、私たちにある種のショックを与えたのではないだろうか。とりわけ1955年から始まった延々と続くベトナム戦争の悲劇はアメリカ社会に大きなショックを与えたと思う。

1967年公開の映画「俺たちに明日はない」や「バニッシングポイント」は明らかに人間内部に存在するコントロールしがたい破壊衝動、暴力性をテーマにしている。

精神医学者のエリック・エリクソンはその著「責任と洞察」の中で理想の自我を内なる暴力を自覚し、それを穏やかな表情の下でコントロールできる人としている。

また、クライン学派で知られるメラニークラインは人間の自我の発達を母親の乳房との関係で考え、乳児においてはその心の内部で乳を与える良い母と乳を与えない悪い母とが存在しそれらが別物として分裂しており、その悪い母に対しては激しい敵意と破壊欲求を向けていると説く。幼児のある段階で出る抑うつの表情は、幼児の心の中で分裂していた母親像が統合されて、また悪い母に対して激しい破壊衝動を向けたこと、実はそれは良い母に対して向けた破壊衝動だったことに対する贖罪の感情であると説く。以来人間は贖罪の道を歩く、それが原罪であると彼女は説くのである。荒唐無稽なように感じるかもしれないが、このクライン学派は統合失調症に有効であると言われている。

我々の体という躯体の内部には見通せない暗さがある。

僕は高校生の時に何かわからないショックに見舞われて、その時から世界を失い、世界から疎外されているという感覚を抱いてきた。そのために失った世界を、切り離された世界を取り戻すことは切実な問題となった。

それは何だろう。

大学では法律を学んだわけだが、その法律の世界は確かにすべての世の中の紛争事象に対処すべく網の目を張り巡らせている。その網を破ると社会の中で許されざることとして糾弾されるわけだ。

このいわば網について三島由紀夫がエッセイの中で面白い例えをしている。

餅網に例えている。

餅網の下には火が燃えている。

網の上のわれわれはその業火に焼かれるのだが、まったく安全であれば焦げ目がつかない。

業火に焼かれ過ぎれば黒焦げになり死ぬわけだが、しかし適度な焦げ目がつかないとやはり美味しくはないのだ、とそう言っている。

法の網はおよそ世界性とはかけ離れている。

一気に丸ごとつかまなければこの混沌とした世界を所有するという感覚にはなれない。

結局私は藝術行為に行きついたのである。

意識も無意識もひっくるめて、全体性において(瞬時に)つかむ、もうそれ以外にはないのじゃなかろうか。

しかしこのように考えると、これは少しばかりやばいことにもなる。

この考え、感覚は犯罪者の心理でもある。

言葉をなくした、あるいは言葉での表現に昇華できない人間が、内に鬱積するやりきれない、処理できない力を感じるときに犯罪行為という一瞬の行為において解決しようとする心理と通じるのである。

小説家はかなり好んで犯罪者に興味を示す。

網の上のわれわれは、どこかで網目を破る輩に脅威を感じるところがあるだろう。それは人間として破れた人物の

非人間性が常人のやれないことをするということから超越性の感覚を醸し出す場合があろう。

あるいはユング的な考えからすると、犯罪者は常人の影を生きている。自分が排除している影を生きるのはやはり魅力にもなる。

1963年10月から翌年にかけての78日間、12万人にも及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、殺人と詐欺を繰り返しながら福岡から北海道まで日本中を這いまわり、最終的に5人の命を奪った西口彰がいた。

この事件は佐木隆三が小説とし、その小説を今村昌平が映画化した。

今村は登場人物の内面に入り込んで描写することを排してドキュメンタリー的に外部から事実を追うように、ロケ中心の作りをした。実際殺人現場のアパートでもロケをしている。その徹底性によって、俳優にも犯罪の当事者心理が入りこんだのではなかろうか、それがこの映画の異様な雰囲気であり、それ故に西口の残忍性と人間性をなくした人間の闇を浮き出させたと言える。

殺人の場面で被害者が失禁する描写も取り込んでいる。

犯人役の緒形拳は、この犯人の倫理的抑制がほとんどないこの男の異質性をよく演じている。

いずれにせよこのきわめてまれな殺人事件は小説にし、映画に作ろうとする情熱を掻き立てたわけだ。

我々の中にどす黒く存在する破壊エネルギーは、絶えず噴出する機会を狙っているといえるだろう。

第二次世界大戦時においてナチはユダヤ人の虐殺、民族浄化を試みた。

ナチは何百万人というユダヤ人虐殺システムを考案して実際に実行に移した。戦後この戦争犯罪に携わった人物の追及がなされイスラエルの組織モサドがその追及を行った。

その中の一人アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているとの情報を得て、イスラエルの諜報特務庁(モサド)により拉致、身柄を拘束されて密かにイスラエルに移送された。そして1960年にアイヒマン裁判が開始された。

ユダヤ人でもあり、有名なハイデガーの弟子でもあった政治哲学者のハンナ・アーレントは一連のアイヒマン裁判を傍聴してレポートを書いたが、彼女は裁判の傍聴を通してショックを受けた。

あの虐殺システムを構築し、その運営を通して虐殺、絶対的な悪を中心として行った人物はどのような人物であったのか。

ハンナ・アーレントはアイヒマンがどこにでもいる、実に凡庸な人物であったことに多大なショックを受けたのだった。

特殊な人物が悪を行ったわけではなかった。つまり悪は特定の人の属性ではなく、我々と同じごく当たり前の凡庸なる人物の属性である。

アイヒマンは、自分はただ命令に従っただけで、その命令を忠実に実行したまでだと主張したのであった。

悪は自分の外側にあるのでもなく実は我々の内にあるのである。

アブラモビッチのパフォーマンス<Rythm0>でも見られたように我々の内なる暴力はいともやすやすと引き出される。

けっきょく我々は馬の背の分水嶺の上を歩いている。

落ちる先は犯罪と芸術的営為の二つである。結果の隔たりは遠いがもとは同じである

けっきょく両者はともに我が内にあるのだ。

したがって絶えざる自己検閲が必要となる。

しかし芸術的営為はその形態においてどこまでも平和である。


目覚めると

朝目覚めると、遮断されていた神経回路が働きだして外側の音が押し寄せる。

天井の蛍光灯、書棚が視野の隅に入る。

意識が立ち上がると対象世界は事物で満たされて固定されている。

言葉で名付けられた事物の集合、密集する世界。

遠近法の枠と言語の機能を通して私たちは世界を固定して見ている。

意識が立ち上がったばかりのこの世界は、すでに世界が言葉の機能によって、天井、書棚、蛍光灯というように区切られ、それらの事物が空間内にはめ込まれて私を包む世界は固定されている。

意識世界は言語世界だということになる。

つまり意識が作動すると同時に私たちは対象を分節化するという言語機能を通して世界を見る。

自分を取り巻く世界がそのようにして固定化できているがゆえに私たちは安心して世界の中を歩き回ることができる。

五感が機能し始めると、つまり意識が活性化してくると、事物をさらに選択しながら、事物にフォーカスしながら意味を紡ぎだす。

庭に咲く花にフォーカスして、ああ、花が咲いた、美しいというように言葉を紡ぎだす。そのように意味を求めて意識が彩をなすさまが我々の日常の息づく、生きていることに他ならない。

デジタルカメラのセンサーが光の強弱をとらえて、画像エンジンがその情報処理を行うことで可視化されるが、われわれの目もまた同じようにして網膜上でとらえた光の強弱という信号が脳で処理されることで可視化される。

したがって眼自体の損傷、あるいは脳の損傷で我々の目に映じる画像が存在しあるいは消滅する。

脳のある部位が欠損した人においては、我々が見ているものが見えないという状況が起きる。つまりその人においては、我々の世界において存在している事物は存在しないことにもなる。

このように考えると、目に見えている世界の事物、その存在は脳が認識できるか否かによることになる。脳のソフトにバグがあり、脳が対象をとらえることが出来なければ事物は存在しない。

私たちにとって事物とは何かと問えば、意識つまり言語の網によってとらえられ、構成される範囲でのものであり、従って物自体はどこまでも不明である。誰もが同じように見えるというのは脳の機能が概略同じだと言うことを意味している。

網膜上に固定化された世界の向こう側を考えてみる。

今、ある客体世界を見ている。客体世界には無数の事物がはめ込まれている。

遠近法によってその世界は空間的に構成されている。

その中を私の目はサーチライトのように焦点を移動させる。そうすることで私は意味を紡いでいる。

ある少女が佇んでいる。

彼女の影と体が目に入っている。私の心の中で長く伸びた少女の影に引き寄せられる。

その影はやがて私の過去のある情景につながっていく。

このように私の心の働きによって対象世界の画像の持つ意味はさまざまに異なってくる。

あるいは様々な意味が紡ぎだされてくる。

網膜上に固定された画像あるいは世界の上で意味を紡ぎだそうと心がうごめいている。

意味を紡ぎ出すのは私という躯体、構造である。

その私たちの心的構造は単層ではなく、生れてからこの方積層に積層を重ねて、外界に対応するべく自我の鎧を作り上げてきた、その総体としての何かである。

つまり網膜に映じている世界のなかに意味を紡ぎだす心の働きは無意識を含む身体の全体の作用である。

そのように考えると網膜に映じた世界の裏側には私の無意識も張り付いているということになるだろう。

では網膜上の画像のその向こうには何があるのかと問いたくなる。

つまり対象自体、物自体の世界は何だろうかということである。

言葉の機能を通してえられた世界が世界であり、そのほかには世界は存在しないとなれば、網膜の向こうの世界は世界ではなく、まさに嘔吐すべき混沌とした耐え難いカオスだということになる。

日本の、特に禅の考えはどうだろうか。

禅においては目に映じていて、その中で動き回っているこの世は言語の網によってからめとられた不自由な世界、仮象の世界だと言う。

仮象の世界の向こう側に、言語によって分節化されていない世界があり、そこに至ることまたそこに触れることで私たちは真の自由を得ると考える。

そこに至る道、それは容易ではなく、長い修練によって言語の作用を緩めていく必要があり、それが公案を介した対話でありまた座禅による観想の修行である。

禅の世界をどう考えるかということですが、われわれの意識世界が、自らの意識の在り方を否定するという意識の在り方を自らが措定する。措定してそこに向かうことで現実の言語によって分節、限定される己の意識の在り方を緩めることで自由を得ると考えることができるのではないだろうか。物理的な存在の有無を考えているのではないだろう。

西洋美術においてはマルセルデユシャンが便器を持ち込んで泉と題して以来、美術は再現するものではなく、新たな意味の組み換え、創出となった。つまり言語の世界となった。

そこでは絶えず新たな意味、意味の組み換えを突き付けてくる。

わたしたちは私という躯体を見通すことができない。見通すことができないけれども絶えずその周りを巡り、そこから外への働き掛けをする。そしてまた私に戻る。そして私の在り様を探り、つまり経験をもとに私を解体し、再構築していくのだ。

循環する内省的思考は重い。

そこから外れてむしろ意味を消してゆくことは出来ないだろうか。

死ねばもちろん意味なき世界に行くが、生きながら言語の限定する世界を離れて、外してみることは可能であろうか。

もしそうなれば随分気持ちが楽になるのではないかと夢想するのだ。

(註) *「アポロ11号」が失敗したという想定でのAIによる動画

    *マリーナ・アブラモビッチのパフォーマンス<Rythm0>(1974)

    *「復讐するは我にあり」今村昌平が映画化

    以上に関してはwebから引用

    *意識の考察については井筒俊彦「意識と本質」に多くを負うています。    


                                        2023.10.28   天神山アートスタジオにて記す